えらーさん。が何か言っているようです

140文字からはみ出した話

やっかいなもの

昨日、見えない敵の話をした。

そしてTwitterでは「麻生さんが35万のスーツを着ていて」事に対して「高い」と言った見えない敵が出現した。

発信元はまとめサイト

 

いつもの流れだ。何かの情報に色を付けて捻じ曲げ、それに対する反応に乗せて更に捻じ曲げていく。歪な「誰かの敵」を作り上げる。そうなればこっちのもので、まとめサイトにはアクセス数が増えお金がいっぱい手に入るわけだ。大変シンプルでわかりやすい。

そろそろ、騙され無いように気を付けてみたらどうだろうか。その敵は本当に実在するのか、発言の意味や前後の文章、部分的に切り取られた情報では無いか、付属された意見は誰のものなのか、考え方が偏っていないか、感情的な部分で評価していないか…

ネットには情報が溢れ、永遠と湧き上がり、垂れ流されている。

その全てをただ鵜呑みにするだけでは馬鹿だ。情報が本物かを見定めていく事は必要不可欠だ。

今日も見えない敵と戦う

敵というと何を思い出すだろう。

まあ一般的にうすらぼんやり思い浮かぶのは、自分を傷つける人とかそういう感じだと思う。ネットで調べてもそんな感じの事が出てくるので多分合ってる。

 

SNSでは日々何かと戦っている人たちがいる。大変よく見る。それは理不尽な要求をしてくる客だったり、理不尽な要求をしてくる上司だったり、理不尽な要求をしてくる義母だったり、理不尽な事多いな。まあいってみればその辺も敵だ。全員敵だ。

最近ではセクハラやパワハラ痴漢やブラック企業なんかも敵として見られている。その通り、これらは敵だ。全員弾け飛んで欲しい。来世はコンクリートに埋められた土の中で生まれた蝉とかになって欲しい。

しかし、そんな人々が熱くなる場所を皆がほって置くはずがない。大変美味しい場所なのだ。だから「架空の敵」を作る人が現れる。この架空の敵は大変厄介だ。なぜなら、人工的に作られた敵であるから、立派に隙なく大変に理想的な敵なのだ。だから人々はそれを寄ってたかって攻撃する。だって見たところ完璧な敵だから。同情する余地も無い。そして、それを叩いている人を見て擁護する人も居る。その人たちは存在しない人工的に作られた完璧な敵を、なんとか擁護しようとする。その擁護は大変苦しくこじつけの様な話になってきて、そうすると今度は架空の敵(本人たちにとっては完璧な敵)を叩いていた人たちがその擁護している人を叩き始める。

 

阿鼻叫喚とはまさしくこの事だと思う。

 

Twitterなどでよく見る、「○○って言ってる人がいたらしいけど、これは□□だと思う」という意見は見るのに、肝心の「○○」と言った人が見つからないアレだ。

デマも同じだ。結局、面白半分だったり金になると思って作り出された人工的な敵に全員踊らされているのだ。

それが本当の事なのか、真実を見極める事が大切だ。

 

それはそうと、住む部屋住む部屋全部に見えないものが住み着いているという友人が居る。あえてそういう場所を選んでいる節もある。だが、彼女はその見えないものが居ると分かっていながら完璧に無視する。そしてたまにガチギレする。ある日「住むなら家賃半分払って」と言ったら気配が消えたらしい。

見えないものも、家賃半分払うのは嫌だったらしい。

ブログを始めた理由とかなんかそんな感じの話

こんな日記ブログなんかありふれていて、今まで書かれていない事なんか無いんじゃないかと思う。それはもう頭の良い人の書く素晴らしい話から、おいしいティッシュ食べログまで(ここが終着点なのか分からないけれど)何でもある。

そんな中、わざわざ新たにブログを始めた理由は、Twitterからの移行だ。

私はTwitterで9年くらい140文字の世界にいた。今まで自分の思う事を言ってきたし、初期はクソリプにだってちゃんと対応していた。今は全ての通知を切って引き篭もっているけど。

でもある日、Twitterの140文字が窮屈に感じた。そして昔とは違うなと思った。的確に文字で表すのはとてもむずかしい感情だけど、いうなら「取り残された感じ」というやつだ。

つまり、私はもうTwitterについてけなくなっていた。Twitterの空気は私には合わなくなった。ここは私の場所じゃないんだなと分かったからには、新しい場所が欲しくなった。

そして、ここでブログを開設した。

 

まあこれには本当に色々あって

Twitterで少し前にバズっていた、Hey、Siriの定型文遊びのようなもので、性欲を発散するために近くの風俗店をSiriに聞いたら、性欲は風俗だけで発散するものではありませんよと返事が来て、そうだなじゃあ近くの幼稚園はどこだい?と聞くというネタツイがあって、それを嬉々としてRTふぁぼしている層が居るのを見て本当にクソだなと思ったのとか、ある特定の属性を自分より下だとみなし(下でなければならないと押し付けているとも言える)これもクソみたいな言葉を簡単に投げつけていたりとか、そういうものも積み重なっての、移行とも言える。

私が国家試験で資格を取った事をツイートしたら「女ってこういうネットの知識を自分の知識のように言うよなw」なんて鼻で笑ってしまうようなリプ付くような場所に居たいと思う人はそうそういないだろうと思うわけです。

 

私は好きに言いたいことを言う。Twitterも平行してやっていくけど。

クソリプはお腹いっぱい。

肩周辺の話

とりあえず日記を書いていく。

 

肩幅の話。

肩幅というのは、そう自分の右と左にあるそれ。肩。その幅の事。

両肩のはしからはしまでの幅(出典:ネットで検索したら最初に出てくるやつ)

 

何故肩幅の話をするのかというと、私の肩幅が広いからだ。ちょっと広いとかではない。結構広い。どれくらい広いかというと、高校生の時にブレザーだったのだが、肩幅のせいでサイズを一つ上げたくらいには広いし、成人式の時に「ちょっと…このサイズ感は無いですね…」と反物の規格からぶっ飛んで出た程度には広い。

胸がキツいから…といってブレザーのサイズを一つ上げた友人の隣で、私は肩幅によりブレザーのサイズを上げた。皆が着物を反物から選んでいる時、私は反物自体から特注した(倍以上の値段がかかった)

いや、肩幅だけの理由でサイズを一つ上げたり、反物から作ったというのは少し語弊があるかもしれない。

私は腕も異常に長い。よく、両手を広げた長さは身長と同じと聞くが、私の場合は両手を広げた長さが約180cmある。身長は164cmだ。16cmも長い。これは結構長い。着る服が結構な割合で八分丈になる程度には長い。そして、ブレザーや着物も例外ではなく八分丈になる。

そういった肩周辺の尋常ではない尺の事情により、私のブレザーは一つ上のサイズになり、着物は反物から作る事になったのだ。

 

私は昔から肩幅と腕の長さにより人生を狂わされている。パフスリーブなど着た時など地獄だ。世紀末、ヒャッハーと言いそうな見た目になる。棘でも付けてやろうか。刺すぞ。

いつか肩で人を刺し殺すかも知れない。

 

だが、良い事もある。

手が長いという事は遠くのものも取りやすい。寝転びながら部屋の端に転がったリモコンやティッシュ箱など取る時に大変楽だ。あと、背中のどこでも手が届く。洗う時に便利だ。ついでに何かスタイルが良く見える事がある。目の錯覚だ。

 

人間には長所と短所がある。肩幅が広く腕が長い事は長所でもあり短所でもある。基本的に短所のほうが多い。やっぱり短所かもしれない。しかし、私は自分の尋常ではない肩幅を愛している。でももし肩幅が欲しいという人がいたら全力で分け与えたいくらいには、憎んでもいる。

愛と憎悪は紙一重なのである。